忘れざる人、天馬正人先生(その1)
- 2014/05/03
- 09:47
アニメーション関係の会やイベントに関わらせていただく機会も割と多いのですが、そんな時によく尋ねられることがあります。
「アナタは、一体何者ですか?」と。
この質問をされると、自分でも本当に困ってしまいます。私は子どもの頃から好きだったテレビアニメやマンガをずっと忘れられず、探求し続けてきただけですが、いつしかそれがライフワークのようになっていました。
そんな私ですが、これまでたくさんの方々のご好意により、探求を進めてくることができました。中でも、特に気にかけて応援してくださった方々がいらっしゃいます。その方々との出会いと励ましが、どれだけ力になってくれたことか分りません。本当に私にとって恩師ともいうべき方々です。
前回ちょっとご紹介した鷺巣政安さんもそうですが、天馬正人さん、石黒昇さん、金山明博さん、荒木伸吾さんもそうです。ここでは、そんな師のお一人、天馬正人先生のことを書かせていただきます。
ご存知ない方もいらっしゃるかもしれませんが、天馬先生は元々は、児童漫画家・大田じろうさんのお弟子さんで1953年(昭和28年)頃、描き下ろし単行本でデビューされました。
そして、太田加英二や、高橋一夫などのペンネームで、太平洋文庫や、鶴書房、曙出版、富士見出版、金園社など、各社で次々に描き下ろし作品を発表する売れっ子マンガ家となっていました。
昭和30年代に入る頃には活躍の場をさらに雑誌にまで拡げ、『冒険王』や『少年クラブ』、『おもしろブック』、初期『少年マガジン』などでも連載を持つ人気マンガ家として活躍されていました。
ペンネームをとにかく多数お持ちの方でしたので、なかなかマンガ研究などでも実体の掴むことの難しいマンガ家さんだったかもしれません。
ただある時、後輩のマンガ家だった吉田竜夫さんから、是非にと請われて、まだ社名もまんが制作以外の社業すらも決まってなかったタツノコプロの発足に協力します。そして第一作の『宇宙エース』の企画と脚本を手掛けた以降は、タツノコプロの主に出版部門を長年支え続けていらっしゃいました。
あれは今から20年ほど前。1990年くらいだったでしょうか。
ある日、雑誌『アニメージュ』にタツノコ通信スクールの広告が掲載されました。その広告を見て、掲載された電話番号に恐る恐る電話したのが始まりでした。
そこには、タツノコ通信スクールとして、アニメーター、シナリオライターなどの通信教育の告知とともに、これまでのタツノコ作品のシナリオやアフレコ台本、設定資料などを販売しているとあったので、旧作の資料もあるかどうかを確認したかったのです。
私は、それまでも古書店などで『宇宙エース』や『マッハGOGOGO』、『科学忍者隊ガッチャマン』、『ゴワッパー5ゴーダム』など、自分の昔から好きだったタツノコ作品の台本や設定、原画などを探していました。
電話の向こうでは、優しそうな年配の男性が出られて、こちらの急な用件にもかかわらずご丁寧に答えてくださいました。その時、幾分興奮気味の当方の質問にも、しっかりとお応えくださる優しい口調に、もしやとある予感がしたのです。
「もしかして、天馬正人先生でしょうか」
「はい。ワタシ、天馬ですが」
今にして思うと、何故あの時、電話口で話してくれている人が、天馬先生と思ったのでしょうか。その時はただ、なんとなく確信めいたものが、浮かんだのです。
「今話してくれているのは、天馬先生だ」と。
子どものころから、吉田竜夫・九里一平作品やタツノコプロのテレビアニメが好きだった私は、創設メンバーのお一人だった天馬先生の存在も、『Out増刊ランデヴー』(みのり書房刊)や『なつ漫グラフィティー』(双葉社刊)などの記事で、多少は予備知識を持っていました。そこで、電話でもいろいろとそれまで気になっていた創設当時のことをお尋ねすると、とても驚かれて、
「そんなにお好きでしたら、一度こちらにいらっしゃい」とまで、誘ってくださったのです。
それから、3、4ヶ月に一度くらいのペースで、仕事で代休が取れる日には、鷹の台にあったタツノコスタジオの天馬先生の部屋にお邪魔する日々が始まりました。
いつも前日に電話でご都合をお聞きして、徹夜明けの勤務のあと仮眠をとり午後になるとスタジオに出かけました。そこで天馬先生から、竜夫さんの奥様の弟さんで、当時スタジオ管理をしていらしたプロデューサーの柴田勝さんにもご紹介いただきました。
天馬先生は、甘い和菓子がお好みで、どら焼きをお持ちすると「ああ三笠山ですか。ワタシはこれが大好きでしてねえ」と相好を崩されとても素敵な笑顔で喜んでくださいました。
時々、スタジオには先生の奥様も手伝いにいらしてましたので、お茶を入れていただき、三人で一服するのも楽しいひと時でした。(続く)

「アナタは、一体何者ですか?」と。
この質問をされると、自分でも本当に困ってしまいます。私は子どもの頃から好きだったテレビアニメやマンガをずっと忘れられず、探求し続けてきただけですが、いつしかそれがライフワークのようになっていました。
そんな私ですが、これまでたくさんの方々のご好意により、探求を進めてくることができました。中でも、特に気にかけて応援してくださった方々がいらっしゃいます。その方々との出会いと励ましが、どれだけ力になってくれたことか分りません。本当に私にとって恩師ともいうべき方々です。
前回ちょっとご紹介した鷺巣政安さんもそうですが、天馬正人さん、石黒昇さん、金山明博さん、荒木伸吾さんもそうです。ここでは、そんな師のお一人、天馬正人先生のことを書かせていただきます。
ご存知ない方もいらっしゃるかもしれませんが、天馬先生は元々は、児童漫画家・大田じろうさんのお弟子さんで1953年(昭和28年)頃、描き下ろし単行本でデビューされました。
そして、太田加英二や、高橋一夫などのペンネームで、太平洋文庫や、鶴書房、曙出版、富士見出版、金園社など、各社で次々に描き下ろし作品を発表する売れっ子マンガ家となっていました。
昭和30年代に入る頃には活躍の場をさらに雑誌にまで拡げ、『冒険王』や『少年クラブ』、『おもしろブック』、初期『少年マガジン』などでも連載を持つ人気マンガ家として活躍されていました。
ペンネームをとにかく多数お持ちの方でしたので、なかなかマンガ研究などでも実体の掴むことの難しいマンガ家さんだったかもしれません。
ただある時、後輩のマンガ家だった吉田竜夫さんから、是非にと請われて、まだ社名もまんが制作以外の社業すらも決まってなかったタツノコプロの発足に協力します。そして第一作の『宇宙エース』の企画と脚本を手掛けた以降は、タツノコプロの主に出版部門を長年支え続けていらっしゃいました。
あれは今から20年ほど前。1990年くらいだったでしょうか。
ある日、雑誌『アニメージュ』にタツノコ通信スクールの広告が掲載されました。その広告を見て、掲載された電話番号に恐る恐る電話したのが始まりでした。
そこには、タツノコ通信スクールとして、アニメーター、シナリオライターなどの通信教育の告知とともに、これまでのタツノコ作品のシナリオやアフレコ台本、設定資料などを販売しているとあったので、旧作の資料もあるかどうかを確認したかったのです。
私は、それまでも古書店などで『宇宙エース』や『マッハGOGOGO』、『科学忍者隊ガッチャマン』、『ゴワッパー5ゴーダム』など、自分の昔から好きだったタツノコ作品の台本や設定、原画などを探していました。
電話の向こうでは、優しそうな年配の男性が出られて、こちらの急な用件にもかかわらずご丁寧に答えてくださいました。その時、幾分興奮気味の当方の質問にも、しっかりとお応えくださる優しい口調に、もしやとある予感がしたのです。
「もしかして、天馬正人先生でしょうか」
「はい。ワタシ、天馬ですが」
今にして思うと、何故あの時、電話口で話してくれている人が、天馬先生と思ったのでしょうか。その時はただ、なんとなく確信めいたものが、浮かんだのです。
「今話してくれているのは、天馬先生だ」と。
子どものころから、吉田竜夫・九里一平作品やタツノコプロのテレビアニメが好きだった私は、創設メンバーのお一人だった天馬先生の存在も、『Out増刊ランデヴー』(みのり書房刊)や『なつ漫グラフィティー』(双葉社刊)などの記事で、多少は予備知識を持っていました。そこで、電話でもいろいろとそれまで気になっていた創設当時のことをお尋ねすると、とても驚かれて、
「そんなにお好きでしたら、一度こちらにいらっしゃい」とまで、誘ってくださったのです。
それから、3、4ヶ月に一度くらいのペースで、仕事で代休が取れる日には、鷹の台にあったタツノコスタジオの天馬先生の部屋にお邪魔する日々が始まりました。
いつも前日に電話でご都合をお聞きして、徹夜明けの勤務のあと仮眠をとり午後になるとスタジオに出かけました。そこで天馬先生から、竜夫さんの奥様の弟さんで、当時スタジオ管理をしていらしたプロデューサーの柴田勝さんにもご紹介いただきました。
天馬先生は、甘い和菓子がお好みで、どら焼きをお持ちすると「ああ三笠山ですか。ワタシはこれが大好きでしてねえ」と相好を崩されとても素敵な笑顔で喜んでくださいました。
時々、スタジオには先生の奥様も手伝いにいらしてましたので、お茶を入れていただき、三人で一服するのも楽しいひと時でした。(続く)

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