『海のトリトン』から50年
- 2022/04/24
- 06:30
『海のトリトン』(原作/手塚治虫)が、1972年(昭和47年)4月1日から放映され、今年で50年を迎えます。富野喜幸(現・由悠季)さんによる監督第一作でした。また『宇宙戦艦ヤマト』の西崎義展さんのプロデュース第一作としても知られています。
アニメブーム以前、ファンが始めて録音スタジオに集まったのが『トリトン』でした。またファンクラブが作られ会報(=同人誌)が発行されたり、制作スタジオにもファンが訪れセル画をもらっていくなどと、ファン活動が活発化したのもこの作品からでした。
放映終了後も各地のファンが地方局に再放送の嘆願活動をし、再放送を見た新しい層が拡がるというムーブメントも『ルパン三世』同様に、この頃あたりから始まっています。
これほどまで後のアニメブームに大きな影響を与えた作品ですが、そこには謎も多いのです。
放映時、虫プロダクションは表向きは健在で倒産に向かう混乱も表立ってはいません。それなのに何故、製作はパイロットフィルムを作った虫プロ商事ではなく、アニメーション・スタッフルームという新興の会社になったのか。富野さんにディレクターを任せることになったのは、どのような経緯だったのか。キャラクターデザインと作画監督に、どうして東映動画出身の羽根章悦さんを招いたのか。そして、脚本・構成が松岡清治さんになったのは何故なのか、などなど長年の疑問でした。
それを解く鍵となるのが、この作品を仕切られた黒川慶二郎さんでした。黒川さんは、虫プロ生え抜きのプロデューサーで『鉄腕アトム』初期から制作として活躍され、後半『ジャングル大帝』で主力スタッフの抜けてしまい脆弱化した『アトム』の現場を最後まで支えました。
富野さんも、主力が抜けた後も『鉄腕アトム』の社内演出家として孤軍奮闘されました。手塚さんも熱心で、当時は毎回絵コンテなどチェックし打ち合わせを行っています。その経緯もあり黒川さんは高く評価していた富野さんを指名し、手塚さんも旧知の富野さんならではと了承したのです。
黒川さんは独立後、東京ムービーでも様々な作品を手掛けられました。『巨人の星』もそのひとつです。そしてこの作品で知り合われた羽根さんや松岡さんを、メインスタッフに起用しました。
『トリトン』制作中の現場に西崎さんが顔を出すことはなかったと、聞いたこともあります。後の版権問題で西崎さんの扱いになっただけで、当時は営業担当で制作にはタッチされてはいなかったのです。
アニメブーム時には『トリトン』も、大人気となっていた『ヤマト』の西崎さんの功績のひとつとなり、この詳細が明かされることはありませんでした。
個人的には手塚さんを敬愛しつつも、『トリトン』では手塚色からの脱却を目指したのは、黒川さんのプロデューサーとしての時代を読む怜悧な判断がそこにあったからでしょう。
『海のトリトン』セルコピー
アニメブーム時、セルコピーも全国に出回っていました。
雑誌の文通欄などを通じて、頻繁に交換されていたのでしょう。
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