あるマンガ家の航跡 天馬正人伝 その22
- 2022/05/22
- 06:30
【第2章】
■週刊誌時代到来 (1)
天馬正人さんが、ライフワークとして描き続けるつもりだった『かみくずおやこ』。残念ながら時代の流れには逆らえず、連載していた『少年クラブ』の休刊により中断することになってしまいます。1962年(昭和37)年の12月号が掲載された最後の作品となりました。
そんな天馬さんに誘いの声をかけたのが、天馬さんと同じく当時『少年マガジン』誌で執筆していた吉田竜夫さんです。
吉田竜夫さんは、若くして挿絵画家を志し京都から上京。直接の師匠や先輩などの伝手もありませんでしたがその優れた画力で認められ、次第に各誌に絵物語作家として連載を持つようになりました。
そして、絵物語の人気が下火になるとマンガ家に転身し、次々に人気作品を発表していきます。
天馬さんとは、奇しくも『スーパージャイアンツ』(原作/宮川一郎)のマンガ化でも競作していました。
吉田さんは講談社の月刊誌『ぼくら』での連載、そして天馬さんはあかしや書房の単行本の描き下ろしということで、その頃は直接の接点もなかったそうです。
やがて世の中はテレビ時代に入り、少年雑誌の主流は月刊誌から週刊誌へと移行します。吉田さんや天馬さんが執筆していた『ぼくら』や『少年クラブ』の発行元の講談社でも、昭和34年(1959年)3月『週刊少年マガジン』を創刊したのです。
吉田竜夫さんは、リアルで華のある作風に定評があり、創刊初期より『少年マガジン』の人気マンガの扉絵も定期的に手掛けていました。
吉田さんが担当する扉絵は、4色や2色のカラーでした。それぞれのマンガとはタッチは違いますが、書籍の表紙のような重厚で躍動感のある絵は好評でした。
『大西巨人』(原作/大津皓一 画/福田としかね)、『アパッチ投手』(原作/佐野美津男 画・石川球太)、そして天馬正人さんの『パトロールQ』(原作/伊藤照夫)もそうでした。
吉田さんご自身も創刊翌年の昭和35年(1960年)8号より、弟である九里一平さんと共作で、『マッハ三四郎』(原作/久米みのる)の連載を開始します。絵物語や挿絵からマンガへと、本格的に軸足を移していたのです。
敏感な編集者やマンガ家たちは、来るべき週刊誌時代の足音をひしひしと感じ始めている頃でした。(つづく)
天馬正人『スーパージャイアンツ』富士見出版社
吉田竜夫『スーパージャイアンツ』講談社
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