忘れざる人、天馬正人先生(その2)
- 2014/05/04
- 06:42
タツノコスタジオに伺ってお話をお聞きしていくうち、お互い読書好きで、松本清張、柴田錬三郎、山手樹一郎、山田風太郎、江戸川乱歩などなど、愛読してきた作家やジャンルの好みも似ていたので読書談義にも花が咲きました。
天馬先生は時代小説はもちろんのこと、昭和33年(1958年)には描き下ろし単行本で江戸川乱歩の『妖人ゴング』や『魔法博士』もマンガ化していたくらいのミステリー好きでいらっしゃいました。
私がその頃は編集関係の仕事をしていたこともあって、いずれは吉田竜夫さんのことを本にまとめることができないだろうか、という話もいつしか二人の間で出ていました。
天馬先生ご自身が、早逝した吉田竜夫という人物を自分より年下ながら、かねてからとても認めておられ、その言葉の端々からも亡くなってかなり経っても変わらぬ親愛の思いが感じられました。
曰く、タツノコプロが出来る前、アニメを始めるまだまだずっと以前、天馬先生の力がどうしても必要だから自分たちの漫画の原作、シナリオ構成として参加してほしいと、吉田さん自ら家にまで何度も訪ねて来て、熱心に自分たちとグループを結成して欲しいと熱心に口説かれたこと。
最初は、まだ社名も決まっておらず、アニメ制作どころかマンガ執筆と並行してデパートの宣伝美術を受注しようかなどと、いろいろ今後の事業について吉田さんに相談され、二人で思案していたこと。
出来上がった原作のストーリー、構成を渡すと、毎回「天馬さん、これはすごい。本当に面白いですよ!」と、非常に喜んで感謝されたこと。
天馬先生の方が年上だが、タツノコプロを会社組織にし、天馬さんもその社員の立場となったのに、皆の前でもいつも「天馬さん、天馬さん」と常に立ててくれ、いつもねぎらいの言葉を忘れることがなかったこと。
吉田竜夫さんとの思い出を私に話してくれる時の天馬先生は、生き生きとして本当に嬉しそうでした。
いろいろ打ち合わせをしていくうちに、天馬先生も当時担当しておられた「タツノコ通信スクール」のサブテキストとしても使用できるような書籍をお作りになりたい、と考えていらしたことも分ってきました。そこで、こちらもいろいろアイデアをお出しして、ご意見を伺いながら、昔のタツノコ創設時の話や、天馬先生ご自身のマンガ家時代のお話を折に触れてお聞きするようになっていきました。
私自身も天馬先生の昔の単行本時代の作品を、それまでもずっと探して読んでいました。とても優しい絵柄の時代物、サスペンススリラー物、SF物、ユーモア物と、本当になんでもござれのオールマイティな児童マンガ家でした。
あの手塚治虫さんも、自分と同じ雑誌に掲載された天馬先生の作品を見て、「こんな作品は自分には描けない。これからも頑張ってください」と、ある時ハガキをくれたそうです。
また、手塚さんとはそんなこともあり親しくお付き合いをされ、天馬先生にお子さんが生まれたのを知ると、わざわざ『鉄腕アトム』などの人形を大量に贈ってくれたこともあったそうです。
天馬先生のマンガはどの作品も先生のお人柄がにじみ出ていて大好きでしたから、いずれまた復刊できないでしょうか、とお尋ねしたこともありましたが、そんな時は先生は「もうワタシの物なんか誰も読みませんよ」と首を横に振り、静かに微笑まれるだけでした。
時には、昔のペンネーム、太田加英二名で描かれた単行本をお持ちすると、
「おやおや、どうしてそんなものを持っているんですか。もう恥ずかしいですよ」
などとおっしゃり照れながらも、執筆当時の思い出話なども沢山してくださいました。
私がいつも天馬先生、天馬先生とお呼びすると、
「先生はお願いですからやめてください。恥ずかしいですよ」と本当に困った表情でおっしゃるのも印象的でした。
ですが、私は「先生は先生です!」と言い張って、いつも天馬先生を困らせていました。(最終的には、「まあ、ワタシは星さんより年上ですから先に生まれたということで……」と幾分苦笑気味にお許しくださいましたが)
天馬先生からは、鷺宮のご自宅にもお招きいただいたり、プライベートでは結婚式にもご出席頂きました。
そして、突然のお別れ……。
ですが、私は、天馬先生からお受けしたご厚情を決して忘れることはありません。
2009年、私が熱望していた天馬先生の作品が遂に復刊されたのです。連載当時、講談社版の単行本では未完のまま終っていた、たつみ勝丸名義で発表した『ジャガーの目』(原作/高垣眸)が、私も協力しマンガショップさんにより完全版として復刻していただけました。
2013年には、念願だった吉田竜夫さんの本も、ノンフィクションライター・但馬オサムさんが『世界の子供たちに夢を ~タツノコプロ創始者 天才・吉田竜夫の軌跡~』(メディアックス刊)として執筆してくださり、そのお手伝いもさせていただきました。
義理堅く真面目で優しくてとても不器用で、でも内に秘めた創作への情熱は決して失うことのなかった天馬先生。先生は若い世代の自分に対しても決して偉ぶることなどなく、常に同じ物を創る者として対等に接してくれました。
この天馬正人というクリエイターの存在を、『ジャガーの目』や『世界の子供たちに夢を』などを通じて今の時代にお知らせできたとすれば、多少なりともはご恩をお返しすることが出来たかも、と思っています。(了)

画像は、昭和36年(1961年)椿山荘で行われた講談社のパーティーにて 前列正面真ん中は天馬先生、その右隣九里一平さん、左隣古城武司さん、天馬先生の左後ろ吉田健二さん、後列左から二人目吉田竜夫さん、天馬先生の後ろ太田じろうさん
天馬先生は時代小説はもちろんのこと、昭和33年(1958年)には描き下ろし単行本で江戸川乱歩の『妖人ゴング』や『魔法博士』もマンガ化していたくらいのミステリー好きでいらっしゃいました。
私がその頃は編集関係の仕事をしていたこともあって、いずれは吉田竜夫さんのことを本にまとめることができないだろうか、という話もいつしか二人の間で出ていました。
天馬先生ご自身が、早逝した吉田竜夫という人物を自分より年下ながら、かねてからとても認めておられ、その言葉の端々からも亡くなってかなり経っても変わらぬ親愛の思いが感じられました。
曰く、タツノコプロが出来る前、アニメを始めるまだまだずっと以前、天馬先生の力がどうしても必要だから自分たちの漫画の原作、シナリオ構成として参加してほしいと、吉田さん自ら家にまで何度も訪ねて来て、熱心に自分たちとグループを結成して欲しいと熱心に口説かれたこと。
最初は、まだ社名も決まっておらず、アニメ制作どころかマンガ執筆と並行してデパートの宣伝美術を受注しようかなどと、いろいろ今後の事業について吉田さんに相談され、二人で思案していたこと。
出来上がった原作のストーリー、構成を渡すと、毎回「天馬さん、これはすごい。本当に面白いですよ!」と、非常に喜んで感謝されたこと。
天馬先生の方が年上だが、タツノコプロを会社組織にし、天馬さんもその社員の立場となったのに、皆の前でもいつも「天馬さん、天馬さん」と常に立ててくれ、いつもねぎらいの言葉を忘れることがなかったこと。
吉田竜夫さんとの思い出を私に話してくれる時の天馬先生は、生き生きとして本当に嬉しそうでした。
いろいろ打ち合わせをしていくうちに、天馬先生も当時担当しておられた「タツノコ通信スクール」のサブテキストとしても使用できるような書籍をお作りになりたい、と考えていらしたことも分ってきました。そこで、こちらもいろいろアイデアをお出しして、ご意見を伺いながら、昔のタツノコ創設時の話や、天馬先生ご自身のマンガ家時代のお話を折に触れてお聞きするようになっていきました。
私自身も天馬先生の昔の単行本時代の作品を、それまでもずっと探して読んでいました。とても優しい絵柄の時代物、サスペンススリラー物、SF物、ユーモア物と、本当になんでもござれのオールマイティな児童マンガ家でした。
あの手塚治虫さんも、自分と同じ雑誌に掲載された天馬先生の作品を見て、「こんな作品は自分には描けない。これからも頑張ってください」と、ある時ハガキをくれたそうです。
また、手塚さんとはそんなこともあり親しくお付き合いをされ、天馬先生にお子さんが生まれたのを知ると、わざわざ『鉄腕アトム』などの人形を大量に贈ってくれたこともあったそうです。
天馬先生のマンガはどの作品も先生のお人柄がにじみ出ていて大好きでしたから、いずれまた復刊できないでしょうか、とお尋ねしたこともありましたが、そんな時は先生は「もうワタシの物なんか誰も読みませんよ」と首を横に振り、静かに微笑まれるだけでした。
時には、昔のペンネーム、太田加英二名で描かれた単行本をお持ちすると、
「おやおや、どうしてそんなものを持っているんですか。もう恥ずかしいですよ」
などとおっしゃり照れながらも、執筆当時の思い出話なども沢山してくださいました。
私がいつも天馬先生、天馬先生とお呼びすると、
「先生はお願いですからやめてください。恥ずかしいですよ」と本当に困った表情でおっしゃるのも印象的でした。
ですが、私は「先生は先生です!」と言い張って、いつも天馬先生を困らせていました。(最終的には、「まあ、ワタシは星さんより年上ですから先に生まれたということで……」と幾分苦笑気味にお許しくださいましたが)
天馬先生からは、鷺宮のご自宅にもお招きいただいたり、プライベートでは結婚式にもご出席頂きました。
そして、突然のお別れ……。
ですが、私は、天馬先生からお受けしたご厚情を決して忘れることはありません。
2009年、私が熱望していた天馬先生の作品が遂に復刊されたのです。連載当時、講談社版の単行本では未完のまま終っていた、たつみ勝丸名義で発表した『ジャガーの目』(原作/高垣眸)が、私も協力しマンガショップさんにより完全版として復刻していただけました。
2013年には、念願だった吉田竜夫さんの本も、ノンフィクションライター・但馬オサムさんが『世界の子供たちに夢を ~タツノコプロ創始者 天才・吉田竜夫の軌跡~』(メディアックス刊)として執筆してくださり、そのお手伝いもさせていただきました。
義理堅く真面目で優しくてとても不器用で、でも内に秘めた創作への情熱は決して失うことのなかった天馬先生。先生は若い世代の自分に対しても決して偉ぶることなどなく、常に同じ物を創る者として対等に接してくれました。
この天馬正人というクリエイターの存在を、『ジャガーの目』や『世界の子供たちに夢を』などを通じて今の時代にお知らせできたとすれば、多少なりともはご恩をお返しすることが出来たかも、と思っています。(了)

画像は、昭和36年(1961年)椿山荘で行われた講談社のパーティーにて 前列正面真ん中は天馬先生、その右隣九里一平さん、左隣古城武司さん、天馬先生の左後ろ吉田健二さん、後列左から二人目吉田竜夫さん、天馬先生の後ろ太田じろうさん
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