九里一平さんに感謝
- 2023/07/22
- 06:30
九里さんは、1940年(昭和15年)1月1日京都市生まれです。1958年、18歳のとき先に上京していた長兄の吉田竜夫さんの元に、次兄の吉田健二さんと共に合流します。
翌年、描き下ろし単行本『あばれ天狗』でマンガ家としてスタートし、月刊誌『日の丸』(集英社)に掲載の『Zボーイ』で雑誌の世界にデビューされます。
その後、『冒険王』や『少年画報』、『少年』、『少年ブック』など、大手各誌に連載を持つ人気マンガ家になられました。
1962年(昭和37年)、竜夫さんを中心に3兄弟と天馬正人さんで、マンガ家の会社竜の子プロダクションを創設します。そして虫プロの『鉄腕アトム』の成功を受け、アニメ制作に乗り出すのです。
1965年(昭和40年)5月8日、フジテレビ系でタツノコ初のテレビアニメ『宇宙エース』がスタートします。原作には竜夫さんがクレジットされましたが、元々は九里さんの『Zボーイ』をベースにアニメ化をという打診が企画の始まりでした。紆余曲折を経て、九里さんたちは経験も無しに自分たちでアニメ製作に乗り出します。九里さんは、『宇宙エース』では、企画・キャラクターデザイン・演出・作画監督と奮闘されました。
以降、『マッハGOGOGO』は演出、『紅三四郎』と『昆虫物語みなしごハッチ』は総監督と演出、『アニメンタリー決断』では、総監督、演出、作画監督まで手掛けられます。
竜夫さんの没後は、『とんでも戦士ムテキング』や『科学忍者隊ガッチャマンⅡ』『ガッチャマンF』など、クリエイター部門も率いつつ奮闘されました。健二さんの後に三代目社長を引き継がれますが、得意としたオリジナルには厳しい時代となり、2005年タツノコプロから離れることになります。その後は、マンガや新作の絵などを発表してこられました。
独立後、食事にお誘いいただき、「これからは、やっと自分の絵だけを描けますからね」とほっとしたご様子で微笑んでおられたことは忘れられません。会社経営者としてのご苦労は、大変だったのでしょう。その時描き進めておられた、冒険モノの新作長編マンガも見せていただきました。
お目にかかると、いつも「星さんは僕のファンだからね」と、歓迎していただきました。2年前最後にお会いした際のインタビューもゲラに目を通されると、「僕のことをよく分かっている星さんだから、もうこのままでいいですよ」と、まったく直しを入れられなかったことも印象に残っています。
九里一平さんマンガ家時代の雑誌付録
昔お見せしましたら、
「すごいな。僕でも、もうこんなに持っていないですよ」と
とても喜んでいただけたのは、良い思い出です。
スポーツもの、SF、アクション、戦記もの、時代ものと
幅広いジャンルを執筆されていました。
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