国際映画社が駆け抜けた時代(その3)
- 2014/05/17
- 09:21
1981年(昭和56年)10月には、実質東映動画制作による『ハニーハニーのすてきな冒険』(原作/水野英子)が始まります。
この『ハニーハニーのすてきな冒険』はチーフディレクターは白土武さんと新田義方さんで、シナリオには辻真先さんと雪室俊一さん、三宅直子さんという豪華メンバーが揃っていました。
作画監督としても白土さんのほか、東映動画作品の重鎮・大工原章さんも参加されました。そして大工原さん率いるスタジオカーペンターも『ドタコン』に引き続き参加し、若き日の名倉靖博さんも原画にいらっしゃいます。この名倉さんが描かれた金田伊功さんばりの作画は、放映当時ファンの間でも話題になりました。
同時期には、自社制作となる『銀河旋風ブライガー』の放映もスタートします。ただ実際にはまだ東映動画のバックアップがあり、同社の海外ルートをそのままスライドして制作していました。なにより金田伊功さんの伝説的となったあのオープニングも、実は東映動画のルートを通じての発注だったということも、それを如実に物語っているでしょう。
東映動画としても、『キャンディキャンディ』、『宇宙海賊キャプテンハーロック』、『キャプテンフューチャー』などで開拓し長い付き合いとなっていた海外ルートです。製作本数が多少増減を繰り返していた当時、制作ラインを維持したい東映動画と、独自の製作拠点を持っていなかった国際映画社の方向性が一致したからだったのでしょうか。
『ハーロック』や『キャプテンフューチャー』などで現地に出張し、作画監督として奮闘されていた菊地城二さんが、『ブライガー』でも作画監督としてローテーションに参加していらっしゃいます。
実は『ブライガー』の各話エンディングのスタッフテロップには、作画監督も原画、動画のスタッフも日本名でしか表示されていません。ただそれはあくまでエンディング上のペンネームで、実際にはこの頃から韓国の大元動画や世映動画などのスタッフが作画や背景、彩色部門などを受け持っていました。
当時、他の作品ではこれまで見たことのない名前でしたので、いささか不思議な感じがしました。放映時のアニメ雑誌の特集や、放映終了後に出版されたロマンアルバムなどにも、キャラクターデザインの小松原一男さんやオープニング作画の金田伊功さん以外は、作画監督や原画を手掛けたアニメーターのインタビュー記事は一切出ることがなかったのです。あれだけ人気も高かったのに、本編を担当したアニメーターの露出がないなんてことは他の作品ではあり得ない事でした。
そして実は作画が海外のスタッフだったことがいつしか分かり、実際どういう方たちが描いていたのか、そのミステリアスなスタッフの正体をとても知りたくなったことを覚えています。
さて翌年の1982年(昭和57年)5月からは『おちゃめ神物語コロコロポロン』(原作/吾妻ひでお)を放映開始します。これは『ブライガー』制作中に自社スタジオを設立し、そのスタジオを中心にして制作する初めてのテレビシリーズとなりました。ただし『ブライガー』自体は、自社スタジオが出来ても作画に関しては海外発注という原則は変わりませんでした。
『銀河旋風ブライガー』は、ロボット物の定番だった正義の味方対悪の組織というような枠に収まらない、宇宙を舞台にした若き仕置き人たちの話でした。
キャラクター同士の会話も垢抜けていて粋で格好良かったのですが、メインキャラのスマートなデザインとゲストキャラのあまりに地味なデザインの落差に、見ていてかなり戸惑った作品でもありました。(続く)

『めちゃっこドタコン』『ハニーハニーのすてきな冒険』
この『ハニーハニーのすてきな冒険』はチーフディレクターは白土武さんと新田義方さんで、シナリオには辻真先さんと雪室俊一さん、三宅直子さんという豪華メンバーが揃っていました。
作画監督としても白土さんのほか、東映動画作品の重鎮・大工原章さんも参加されました。そして大工原さん率いるスタジオカーペンターも『ドタコン』に引き続き参加し、若き日の名倉靖博さんも原画にいらっしゃいます。この名倉さんが描かれた金田伊功さんばりの作画は、放映当時ファンの間でも話題になりました。
同時期には、自社制作となる『銀河旋風ブライガー』の放映もスタートします。ただ実際にはまだ東映動画のバックアップがあり、同社の海外ルートをそのままスライドして制作していました。なにより金田伊功さんの伝説的となったあのオープニングも、実は東映動画のルートを通じての発注だったということも、それを如実に物語っているでしょう。
東映動画としても、『キャンディキャンディ』、『宇宙海賊キャプテンハーロック』、『キャプテンフューチャー』などで開拓し長い付き合いとなっていた海外ルートです。製作本数が多少増減を繰り返していた当時、制作ラインを維持したい東映動画と、独自の製作拠点を持っていなかった国際映画社の方向性が一致したからだったのでしょうか。
『ハーロック』や『キャプテンフューチャー』などで現地に出張し、作画監督として奮闘されていた菊地城二さんが、『ブライガー』でも作画監督としてローテーションに参加していらっしゃいます。
実は『ブライガー』の各話エンディングのスタッフテロップには、作画監督も原画、動画のスタッフも日本名でしか表示されていません。ただそれはあくまでエンディング上のペンネームで、実際にはこの頃から韓国の大元動画や世映動画などのスタッフが作画や背景、彩色部門などを受け持っていました。
当時、他の作品ではこれまで見たことのない名前でしたので、いささか不思議な感じがしました。放映時のアニメ雑誌の特集や、放映終了後に出版されたロマンアルバムなどにも、キャラクターデザインの小松原一男さんやオープニング作画の金田伊功さん以外は、作画監督や原画を手掛けたアニメーターのインタビュー記事は一切出ることがなかったのです。あれだけ人気も高かったのに、本編を担当したアニメーターの露出がないなんてことは他の作品ではあり得ない事でした。
そして実は作画が海外のスタッフだったことがいつしか分かり、実際どういう方たちが描いていたのか、そのミステリアスなスタッフの正体をとても知りたくなったことを覚えています。
さて翌年の1982年(昭和57年)5月からは『おちゃめ神物語コロコロポロン』(原作/吾妻ひでお)を放映開始します。これは『ブライガー』制作中に自社スタジオを設立し、そのスタジオを中心にして制作する初めてのテレビシリーズとなりました。ただし『ブライガー』自体は、自社スタジオが出来ても作画に関しては海外発注という原則は変わりませんでした。
『銀河旋風ブライガー』は、ロボット物の定番だった正義の味方対悪の組織というような枠に収まらない、宇宙を舞台にした若き仕置き人たちの話でした。
キャラクター同士の会話も垢抜けていて粋で格好良かったのですが、メインキャラのスマートなデザインとゲストキャラのあまりに地味なデザインの落差に、見ていてかなり戸惑った作品でもありました。(続く)

『めちゃっこドタコン』『ハニーハニーのすてきな冒険』
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- テーマ:懐かしいアニメ作品
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