1977年(昭和52年)夏、日本中で盛り上がったアニメブーム。その発火点となったのが『宇宙戦艦ヤマト』であったことに異論を挟む人はいないでしょう。
それまで「テレビまんが好き」であることは、世間的には恥ずかしく幼稚な趣味と見られていました。それがこのアニメブームのおかげで、アニメとアニメファンが世の中にも認知され始めたのです。
そのブームを牽引した『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサーだった西崎義展さんの評伝『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』(牧村康正・山田哲久/著)が講談社から出版されました。
いろいろと毀誉褒貶激しい方でしたが、長年その人物像が気になっていましたので一気に読み終えました。内容も生い立ちから、興行プロデューサー時代、虫プロ末期の軋轢。そして『宇宙戦艦ヤマト』成功とその後まで、スキャンダラスな事実も隠さず周辺を取材した労作でした。
裏の顔や異常とも思える女性関係など、これまで噂でしか知りえなかったことまで記述されています。ただ、せっかく「狂気」とタイトルにうたったのですから、出来ればもう少し西崎さんの『ヤマト』制作に燃えた“創作上の狂気”も具体的に知りたかったと思いました。
プロデューサー権限を振り回した現場への理不尽な介入なども、スタッフの証言を交えて記述していただければ、より深みが増したかもしれません。個人的には岡迫亘弘さんや、宇田川一彦さん、そして高橋信也さんや勝又激さんなど、絵作りのメインに携わった方々のお考えも知りたかったところです。
私は、西崎さんとは面識の無い門外漢でした。いろいろと業界内でのマイナスの噂も耳にしていましたが、以下のようなエピソードを知り、不思議な魅力も持ち合わせた人物だと思っていました。
①虫プロ倒産の際、組合主導で再建に動いていた労働組合員の方は、意外にもさほど西崎氏を悪く言っていませんでした。西崎さんは、再建を積極的に応援しようとしていたところもあったそうです。
②1981年『機動戦士ガンダム』の劇場版が公開されるとき、その人気の高まりに危機感を持った西崎氏は『宇宙戦艦ヤマト・ファンクラブ』の会員に向けて、同時期リバイバル上映した『ヤマトよ永遠に』と『新たなる旅立ち』を観にいくよう要請の手紙を出しました。
③2009年に『宇宙戦艦ヤマト』や『宇宙戦艦ヤマト2』、『宇宙戦艦ヤマトⅢ』など、テレビシリーズの作画監督を歴任した小泉謙三さんが亡くなった際、彼を偲ぶ会が仲間内で行われました。その際西崎氏は、長い拘留生活で足が不自由になってしまったにもかかわらず、謝意を表すため会場である飲み屋の二階の部屋まで車椅子姿で駆けつけました。
本書でも、『機動戦士ガンダム』の放映中に過労で倒れて入院した安彦良和さんのもとに、分厚い封筒を手に見舞いに訪れた話が紹介されています。確かに、復帰したら『ヤマト』に戻って欲しいという気持ちもあったと思います。ですが、それだけではなく、病に倒れた自作の功労者への思いもそこにはあったのではないでしょうか。
結局、西崎さんにとって『宇宙戦艦ヤマト』とは、一体何だったのでしょう。もはやご本人に聞けなくなってしまった今、これは永遠の謎となったのかもしれません。
稀代のアニメプロデューサーの評伝、『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』。あのアニメブーム時に、『宇宙戦艦ヤマト』とともに我々アニメファンの前に颯爽と現れた、西崎さんの生涯が垣間見える一冊です。
『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』
欲を言えば参考文献の紹介とともに、巻末には取材協力者の
お名前のリストも欲しいところでした。
上:1972年(昭和47年)虫プロスタッフ内に密かに回っていた
虫プロ商事労働組合執行部のまとめた内部資料。
「西崎氏の行状記」とされています。
下:1981年(昭和56』年)春、ファンクラブ会員に出した手紙。
新会社ウエストケープ・コーポレーションの設立の説明とともに、
『機動戦士ガンダム』の人気と比較されることを危惧し、『ヤマト』
リバイバル上映の劇場に出かけるように呼びかけていました。
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