『赤塚不二夫先生との下落合呑んべえ日記』
- 2016/01/06
- 06:57
昨年、生誕80周年を迎えた赤塚不二夫さんのことを書いた、しいやみつのりさんの『赤塚不二夫先生との呑んべえ日記』(小学館刊)を読みました。
これは、フジオプロ出身のマンガ家であるしいやみつのりさんが、赤塚不二夫さんとの日々を綴った書き下ろしマンガ+エッセイです。
しいやさんは宮崎のご出身で、10代の頃からマンガ家を目指されました。そして上京して働きながら『少年キング』の増刊でデビュー。その後、あるマンガ家さんのアシスタントを経て、フジオプロに向かいます。
そこで作品を見せた赤塚さんに、当日から来るように言われ採用されます。そして仕事部屋に案内されると、いきなりスタッフたちとおもちゃの空気銃で銃撃戦が始まったのです。こうして、しいやさんのハチャメチャで喧騒のフジオプロ時代が始まります。
しいやさんは、1973年(昭和48)に19歳でフジオプロに入社し、12年間在籍されました。やがて3代目のチーフアシスタントとなり、赤塚マンガではおなじみの時々挿入される劇画調のどアップのコマも任されていたそうです。
赤塚さんの幻の自主映画『原始人、東京に現る』の主演にしいやさんが抜擢され、撮影に振りまわされた話。『天才バカボン』原稿紛失時のドタバタ。赤塚さんと縁の深いタモリさんのアシスタントから見たデビュー時の秘話。そして猫の菊千代話などなど、赤塚ファンなら興味深い数々のエピソードが、マンガとエッセイで生き生きと描かれています。
12年間の間には、人気マンガ家だった赤塚さんにも浮き沈みもありました。その間も常に身近で接してこられたしいやさんならではの、赤塚さんの人間的魅力、照れ屋だけど優しかった素顔の描写も素敵です。特に子どもが生まれたばかりのしいやさんの家計を心配し、こっそりと追加手当を出してくれた赤塚さんの思いやりには感動しました。
個人的には、当時デパートで行われていた出張マンガ制作のエピソードも楽しめました。巻頭には若きしいやさんや赤塚さんの写真も掲載されています。
70年代、赤塚マンガの洗礼を受けたマンガファンには是非オススメの一冊です。

しいやみつのり著『赤塚不二夫先生との下落合呑んべえ日記』(小学館刊)
これは、フジオプロ出身のマンガ家であるしいやみつのりさんが、赤塚不二夫さんとの日々を綴った書き下ろしマンガ+エッセイです。
しいやさんは宮崎のご出身で、10代の頃からマンガ家を目指されました。そして上京して働きながら『少年キング』の増刊でデビュー。その後、あるマンガ家さんのアシスタントを経て、フジオプロに向かいます。
そこで作品を見せた赤塚さんに、当日から来るように言われ採用されます。そして仕事部屋に案内されると、いきなりスタッフたちとおもちゃの空気銃で銃撃戦が始まったのです。こうして、しいやさんのハチャメチャで喧騒のフジオプロ時代が始まります。
しいやさんは、1973年(昭和48)に19歳でフジオプロに入社し、12年間在籍されました。やがて3代目のチーフアシスタントとなり、赤塚マンガではおなじみの時々挿入される劇画調のどアップのコマも任されていたそうです。
赤塚さんの幻の自主映画『原始人、東京に現る』の主演にしいやさんが抜擢され、撮影に振りまわされた話。『天才バカボン』原稿紛失時のドタバタ。赤塚さんと縁の深いタモリさんのアシスタントから見たデビュー時の秘話。そして猫の菊千代話などなど、赤塚ファンなら興味深い数々のエピソードが、マンガとエッセイで生き生きと描かれています。
12年間の間には、人気マンガ家だった赤塚さんにも浮き沈みもありました。その間も常に身近で接してこられたしいやさんならではの、赤塚さんの人間的魅力、照れ屋だけど優しかった素顔の描写も素敵です。特に子どもが生まれたばかりのしいやさんの家計を心配し、こっそりと追加手当を出してくれた赤塚さんの思いやりには感動しました。
個人的には、当時デパートで行われていた出張マンガ制作のエピソードも楽しめました。巻頭には若きしいやさんや赤塚さんの写真も掲載されています。
70年代、赤塚マンガの洗礼を受けたマンガファンには是非オススメの一冊です。

しいやみつのり著『赤塚不二夫先生との下落合呑んべえ日記』(小学館刊)
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