高井研一郎さんに感謝
- 2016/11/19
- 22:08
『総務部総務課山口六平太』(原作/林律雄)でおなじみのマンガ家、高井研一郎さんが11月14日79歳で亡くなられました。
高井さんは、昭和12年(1937年)生まれ。戦前はお父様の仕事の関係で、上海に住んでいたそうです。
戦後は長崎に戻られましたが、どこか都会的で飄々とした雰囲気は、幼少時の国際都市・上海で育まれたのかもしれません。
この上海時代のことを描きたくて『山口六平太』の原作者林律雄さんに、構想を話し実現したのが、『上海ワンダーランド』(原作/林律雄)です。当時の上海が生き生きと描写され、素晴らしかったと感想をお伝えしたところ、「ああ、読んでもらえましたか」と嬉しそうでした。
高井さんと知り合ったのは、『総務部総務課山口六平太』が始まって4年くらいだったでしょうか。何度かお会いするうちに、こちらがマンガ少年と知られ、より親しくさせていただきました。
『六平太』も好きだけど、『オレたちゃえろっこ』など、ナンセンス作品の細い線が魅力的です、と申し上げるとニッコリと微笑まれ、「あれは私一人で描いているから、本来のタッチで描けるんですよ。読んでくれてたんですか」と、喜んでいただけました。
ある時、調布のマンションの仕事場にお邪魔すると、「星さん、星さん」と奥の書庫に手招きして、「これ、何だかわかる?」と、いたずらっぽく微笑まれるのです。
出されたのは、手塚治虫さんの『ジャングル大帝』A5判の単行本。「ほら、これ私が描いたんですよ」と、扉のタイトル文字を見せてくれました。その時の誇らしげなお顔は、今も忘れられません。
他にも折に触れ、趣味だった紙相撲のお話、アルゼンチンタンゴの魅力、大ファンだったうしおそうじ先生とのエピソード、九州でのマンガ少年時代のお話など、さまざまなエピソードを聞かせてくれました。
高井さんと言えば、忘れることのできないのが手品です。
もはやセミプロ級の腕前で、原稿が完成しアシスタントさんたちと飲みに行く時は、さりげなく見せてくれたものでした。
実は、私の結婚式でもご披露いただくお約束でしたが、ちょうど歯を痛めて調子が悪く、残念ながらやってはいただけませんでした。ご自身も、余程悔しかったようで、以降お会いするたび「手品が出来なくて、すみませんでした」とおっしゃられ、こちらもかえって恐縮していました。
最後にお話したのは、今年の5月です。電話で話させていただきましたが、体調が悪く自宅と仕事場の往復がやっとで、仕事場でも横になりながら描いているとお聞きし、絶句しました。そこまでしても連載を休まれないプロフェッショナル意識の凄味を感じるとともに、お身体も心配でした。
それから、半年経って聞いた訃報。
これまでたくさんの名作を描いてこられた高井研一郎さんに、改めて心より感謝と御礼を申し上げます。(了)

葬儀場に飾られた髙井さんの思い出の品々

髙井さんが大ファンだった、うしおそうじさんの色紙もありました

会葬者に配られた髙井さんのカード
高井さんは、昭和12年(1937年)生まれ。戦前はお父様の仕事の関係で、上海に住んでいたそうです。
戦後は長崎に戻られましたが、どこか都会的で飄々とした雰囲気は、幼少時の国際都市・上海で育まれたのかもしれません。
この上海時代のことを描きたくて『山口六平太』の原作者林律雄さんに、構想を話し実現したのが、『上海ワンダーランド』(原作/林律雄)です。当時の上海が生き生きと描写され、素晴らしかったと感想をお伝えしたところ、「ああ、読んでもらえましたか」と嬉しそうでした。
高井さんと知り合ったのは、『総務部総務課山口六平太』が始まって4年くらいだったでしょうか。何度かお会いするうちに、こちらがマンガ少年と知られ、より親しくさせていただきました。
『六平太』も好きだけど、『オレたちゃえろっこ』など、ナンセンス作品の細い線が魅力的です、と申し上げるとニッコリと微笑まれ、「あれは私一人で描いているから、本来のタッチで描けるんですよ。読んでくれてたんですか」と、喜んでいただけました。
ある時、調布のマンションの仕事場にお邪魔すると、「星さん、星さん」と奥の書庫に手招きして、「これ、何だかわかる?」と、いたずらっぽく微笑まれるのです。
出されたのは、手塚治虫さんの『ジャングル大帝』A5判の単行本。「ほら、これ私が描いたんですよ」と、扉のタイトル文字を見せてくれました。その時の誇らしげなお顔は、今も忘れられません。
他にも折に触れ、趣味だった紙相撲のお話、アルゼンチンタンゴの魅力、大ファンだったうしおそうじ先生とのエピソード、九州でのマンガ少年時代のお話など、さまざまなエピソードを聞かせてくれました。
高井さんと言えば、忘れることのできないのが手品です。
もはやセミプロ級の腕前で、原稿が完成しアシスタントさんたちと飲みに行く時は、さりげなく見せてくれたものでした。
実は、私の結婚式でもご披露いただくお約束でしたが、ちょうど歯を痛めて調子が悪く、残念ながらやってはいただけませんでした。ご自身も、余程悔しかったようで、以降お会いするたび「手品が出来なくて、すみませんでした」とおっしゃられ、こちらもかえって恐縮していました。
最後にお話したのは、今年の5月です。電話で話させていただきましたが、体調が悪く自宅と仕事場の往復がやっとで、仕事場でも横になりながら描いているとお聞きし、絶句しました。そこまでしても連載を休まれないプロフェッショナル意識の凄味を感じるとともに、お身体も心配でした。
それから、半年経って聞いた訃報。
これまでたくさんの名作を描いてこられた高井研一郎さんに、改めて心より感謝と御礼を申し上げます。(了)

葬儀場に飾られた髙井さんの思い出の品々

髙井さんが大ファンだった、うしおそうじさんの色紙もありました

会葬者に配られた髙井さんのカード
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