創設55周年を迎えて思い起こすタツノコ前史
- 2017/10/28
- 09:46
1962年(昭和37年)10月19日にタツノコプロが創設され、今年で55周年を迎えます。この機会に、タツノコプロ設立の以前、吉田竜夫さんたちの上京後の歩みを辿ってみましょう。
京都から徒手空拳で上京後、兄弟を呼び寄せ落ち着いた新小岩の地。そこで吉田竜夫さんは、自らの実力で絵物語、マンガへと活動の世界を拡げます。そして新たに国分寺市多喜窪に引越し、住居兼執筆用アトリエを兼ね備えた新居を構えました。周囲はまだ家も建物もない田園地帯で、遠くには府中刑務所まで見渡せるくらいののどかな時代でした。洋風のレンガの塀も、3兄弟の手作りです。
ここで吉田竜夫さんはマンガ連載作品を描き、九里一平さんも描きおろし単行本『あばれ天狗』でデビューします。次男の吉田健二さんも、描きおろしマンガ単行本の表紙画を描いていました。
徐々に量産化体制に入った彼らのアトリエには、多くのスタッフが出入りするようになります。
まずは吉田竜夫さんの片腕として、京都時代からの盟友である辻なおきさん。辻さんは、この頃は音楽を志しており、快く吉田さんからの依頼を受け手伝いに参加していました。
そして『ワイルド7』の望月三起也さん。望月さんは、元々は後述する天馬正人さんの弟子です。まだ何も描けなかった10代の望月さんに、枠線の引き方からコマワリまで懇切丁寧に指導したのが天馬さんでした。その天馬さんからの紹介で、望月さんも横浜からこのアトリエに通うようになりました。
他にも中城健太郎さん、江原伸さん、不二みねおさん、原征太郎さんら敏腕メンバーが、作画アシスタントとして集結していました。後に『ウルトラマン』などのリアルなイラストやプラモデルの箱絵を描くことになる渡辺正美さんもこの時代、スタッフとして参加していたそうです。
さて、作画体制も整い一気に各誌に連載を持つようになった吉田さんたちですが、どうしてもストーリー作りは苦手で原作付き作品になりがちでした。そこで、原作・構成パートを強化するために、先輩マンガ家に参加を乞います。それが天馬正人さんでした。
児童マンガ家・太田じろうさんの弟子でもあった天馬さんは、描き下ろし単行本や多くの雑誌連載を持つ人気マンガ家でした。ですが吉田さんに何度も家を訪れられ、自分たちに力を貸してほしい、一緒にやって欲しいと言われ、参加を決めたのです。そして、自分の作品を描くことを辞め、吉田さんたちの作品の原作・構成を担うことになりました。『忍者部隊月光』は、そうして生まれた作品です。
その後、非公式に名乗っていた「吉田竜夫グループ」の名を変え、タツノコプロは発足します。吉田さんはこの時からマンガだけではなく、ゆくゆくは大きく事業を拡げていきたいという大望を持っておられました。そして、アニメ第一作『宇宙エース』を、1965年(昭和40年)5月にスタートしたのです。
創設55周年を迎えるこの時期に、こんな黎明期のことに思いを馳せました。現在、タツノコプロの看板を背負い盛り立ててくださっている皆さんにも、この創業メンバーたちのチャレンジ精神、パイオニア精神をいつまでも忘れないでいただきたいと願っています。

国分寺市多喜窪の地に立っていた吉田竜夫邸の門
表札には「吉田竜夫」の字が
京都から徒手空拳で上京後、兄弟を呼び寄せ落ち着いた新小岩の地。そこで吉田竜夫さんは、自らの実力で絵物語、マンガへと活動の世界を拡げます。そして新たに国分寺市多喜窪に引越し、住居兼執筆用アトリエを兼ね備えた新居を構えました。周囲はまだ家も建物もない田園地帯で、遠くには府中刑務所まで見渡せるくらいののどかな時代でした。洋風のレンガの塀も、3兄弟の手作りです。
ここで吉田竜夫さんはマンガ連載作品を描き、九里一平さんも描きおろし単行本『あばれ天狗』でデビューします。次男の吉田健二さんも、描きおろしマンガ単行本の表紙画を描いていました。
徐々に量産化体制に入った彼らのアトリエには、多くのスタッフが出入りするようになります。
まずは吉田竜夫さんの片腕として、京都時代からの盟友である辻なおきさん。辻さんは、この頃は音楽を志しており、快く吉田さんからの依頼を受け手伝いに参加していました。
そして『ワイルド7』の望月三起也さん。望月さんは、元々は後述する天馬正人さんの弟子です。まだ何も描けなかった10代の望月さんに、枠線の引き方からコマワリまで懇切丁寧に指導したのが天馬さんでした。その天馬さんからの紹介で、望月さんも横浜からこのアトリエに通うようになりました。
他にも中城健太郎さん、江原伸さん、不二みねおさん、原征太郎さんら敏腕メンバーが、作画アシスタントとして集結していました。後に『ウルトラマン』などのリアルなイラストやプラモデルの箱絵を描くことになる渡辺正美さんもこの時代、スタッフとして参加していたそうです。
さて、作画体制も整い一気に各誌に連載を持つようになった吉田さんたちですが、どうしてもストーリー作りは苦手で原作付き作品になりがちでした。そこで、原作・構成パートを強化するために、先輩マンガ家に参加を乞います。それが天馬正人さんでした。
児童マンガ家・太田じろうさんの弟子でもあった天馬さんは、描き下ろし単行本や多くの雑誌連載を持つ人気マンガ家でした。ですが吉田さんに何度も家を訪れられ、自分たちに力を貸してほしい、一緒にやって欲しいと言われ、参加を決めたのです。そして、自分の作品を描くことを辞め、吉田さんたちの作品の原作・構成を担うことになりました。『忍者部隊月光』は、そうして生まれた作品です。
その後、非公式に名乗っていた「吉田竜夫グループ」の名を変え、タツノコプロは発足します。吉田さんはこの時からマンガだけではなく、ゆくゆくは大きく事業を拡げていきたいという大望を持っておられました。そして、アニメ第一作『宇宙エース』を、1965年(昭和40年)5月にスタートしたのです。
創設55周年を迎えるこの時期に、こんな黎明期のことに思いを馳せました。現在、タツノコプロの看板を背負い盛り立ててくださっている皆さんにも、この創業メンバーたちのチャレンジ精神、パイオニア精神をいつまでも忘れないでいただきたいと願っています。

国分寺市多喜窪の地に立っていた吉田竜夫邸の門
表札には「吉田竜夫」の字が
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