魅力あふれる「タツ・マゴ」作品 その9
- 2014/11/23
- 08:20
■ 吉田竜夫亡き後のタツノコプロは
タツノコプロにとって吉田竜夫という存在は、非常に大きなものだったと思います。面倒見がよく率先して常に創作の現場をリードし、多くのスタッフから慕われていた人物です。アニメファンにしても、タツノコプロ=吉田竜夫のイメージは強いものでした。
そんな大きな存在を1977年(昭和52年)9月、不幸にも突然の死去で失ってしまったのです。残された、共同経営者でもあったご兄弟の吉田健二さんや九里一平さんたちの悲しみとショックは、さぞかし大きかったことでしょう。期せずして、スタッフたちの離脱も起こりました。
そんな激震に見舞われたにもかかわらず、新たなスタートを切ったタツノコプロは、『ヤッターマン』や、遺作となったメルヘンもの『風船少女テンプルちゃん』、『一発貫太くん』の製作を続けていきました。それにより、創業者を失ったタツノコの行く末を危ぶんだ業界内外の不安を吹き飛ばすことにもなりました。
1978年(昭和53年)7月には、吉田竜夫さんが生前心血を注いだという、『科学忍者隊ガッチャマン』の劇場版を公開しました。
その後、同年10月には、第一作の作画監督だった宮本貞雄さんに復帰を要請し、前作の総監督だった鳥海久行さんに代わり笹川ひろしさんが総監督となって『科学忍者隊ガッチャマンⅡ』を開始させました。
この当時リアルものが描けるアニメーターは社内でも払底していたため、新たに作画スタッフを養成しながら苦難のスタートだったと聞きます。
しかし、押井守さんや、真下耕一さん、うえだひでひとさん、西久保瑞穂さんという、当時の若手演出家が笹川さんのもとに集結し、新たなタツノコカラーの演出を創りだしていったのです。
以降、タツノコ四天王と言われた方々が、後のスタジオぴえろや、プロダクションI・Gなどの作品を支えていくことになるのですから、ここからもタツノコのDNAが引き継がれたといえるのかもしれません。(つづく)
タツノコプロにとって吉田竜夫という存在は、非常に大きなものだったと思います。面倒見がよく率先して常に創作の現場をリードし、多くのスタッフから慕われていた人物です。アニメファンにしても、タツノコプロ=吉田竜夫のイメージは強いものでした。
そんな大きな存在を1977年(昭和52年)9月、不幸にも突然の死去で失ってしまったのです。残された、共同経営者でもあったご兄弟の吉田健二さんや九里一平さんたちの悲しみとショックは、さぞかし大きかったことでしょう。期せずして、スタッフたちの離脱も起こりました。
そんな激震に見舞われたにもかかわらず、新たなスタートを切ったタツノコプロは、『ヤッターマン』や、遺作となったメルヘンもの『風船少女テンプルちゃん』、『一発貫太くん』の製作を続けていきました。それにより、創業者を失ったタツノコの行く末を危ぶんだ業界内外の不安を吹き飛ばすことにもなりました。
1978年(昭和53年)7月には、吉田竜夫さんが生前心血を注いだという、『科学忍者隊ガッチャマン』の劇場版を公開しました。
その後、同年10月には、第一作の作画監督だった宮本貞雄さんに復帰を要請し、前作の総監督だった鳥海久行さんに代わり笹川ひろしさんが総監督となって『科学忍者隊ガッチャマンⅡ』を開始させました。
この当時リアルものが描けるアニメーターは社内でも払底していたため、新たに作画スタッフを養成しながら苦難のスタートだったと聞きます。
しかし、押井守さんや、真下耕一さん、うえだひでひとさん、西久保瑞穂さんという、当時の若手演出家が笹川さんのもとに集結し、新たなタツノコカラーの演出を創りだしていったのです。
以降、タツノコ四天王と言われた方々が、後のスタジオぴえろや、プロダクションI・Gなどの作品を支えていくことになるのですから、ここからもタツノコのDNAが引き継がれたといえるのかもしれません。(つづく)
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- テーマ:懐かしいアニメ作品
- ジャンル:アニメ・コミック
- カテゴリ:「タツ・マゴ」作品
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