楠部三吉郎さんに感謝
- 2020/04/12
- 06:40
シンエイ動画の創業者のお一人であり同社の名誉会長だった楠部三吉郎さんが、3月20日に亡くなられました。82歳でした。
楠部三吉郎さんは、Aプロダクションを興された、東映動画出身の楠部大吉郎さんの弟です。
Aプロダクションは、『オバケのQ太郎』や『巨人の星』などから、東京ムービーの制作部門の中核を担っていました。親会社である東京ムービーは、企画・営業部門の担当でした。その東京ムービーに32歳で他業種から転身されたのです。
入社後、藤子不二雄さんの『ジャングル黒ベエ』や、児童文学の斉藤淳夫さん原作の『ガンバの冒険』、赤塚不二夫さんの『元祖天才バカボン』などの人気作を、プロデューサーとして手がけられます。
『ジャングル黒べえ』はアニメ発の企画で、そもそもは宮崎駿さんも企画段階にたずさわっていたそうです。これを藤子不二雄さんに描きあげてもらえたのも、三吉郎さんだったからでしょう。
三吉郎さんはそれぞれの原作者からの信頼も厚く、『天才バカボン』の二度目のアニメ化も赤塚さんから任されます。『元祖天才バカボン』というタイトルは、三吉郎さんの奥様の発想だったそうです。
そして、元祖天才バカボン』を制作中の1976年(昭和51年)、三吉郎さんは東京ムービーから独立し、楠部大吉郎さん、別紙壮一さんたちと、シンエイ動画を立ち上げられます。
元々『ドラえもん』に惚れ込んでいた三吉郎さんは、東京ムービー在籍時からアニメ化企画を温めていました。ただ『ドラえもん』は以前、別会社により日本テレビ系で1973年(昭和48年)に放映されました。
こちらは日曜夜7時からの枠で、同じ時間帯にはフジテレビでは『マジンガーZ』が放映中でした。強力な番組と重なったためか、あまり評判になりませんでした。
原作者である藤子・F・不二雄さんも、このアニメ版の人気が上がらなかったことがショックだったようで、新たなテレビアニメ化に対しては消極的でした。
そこで三吉郎さんは、Aプロ時代から旧知の仲だった高畑勲さんに企画書を書いてもらいます。それを読み納得された藤子さんにOKをもらったことから、その奮闘が始まるのです。
まず、とにかく東京のキー局に営業をかけていきました。ですが、以前失敗だった作品の再アニメ化企画を実績のない新興プロダクションが売り込みを単にかけても、門前払いが関の山です。
それでも三吉郎さんは、決して挫けることはありませんでした。テレビ局に日参し、粘り強く売り込みを続けました。その甲斐あって、ようやくテレビ朝日系で夕方のオビ番組として決めることができたのです。
今は新シリーズとなり時間帯も変わりましたが、『ドラえもん』は誰もが知るアニメです。ですがスタート時の三吉郎さんの努力なくしては、今に繋がるテレビアニメや劇場版長編もなかったでしょう。
『ドラえもん』のアニメの道を切り開いてくださった楠部三吉郎さんに、改めて感謝いたします。

楠部三吉郎著『「ドラえもん」への感謝状』(小学館)
三吉郎さんの歩みと『ドラえもん』への思いが分る一冊です。
楠部三吉郎さんは、Aプロダクションを興された、東映動画出身の楠部大吉郎さんの弟です。
Aプロダクションは、『オバケのQ太郎』や『巨人の星』などから、東京ムービーの制作部門の中核を担っていました。親会社である東京ムービーは、企画・営業部門の担当でした。その東京ムービーに32歳で他業種から転身されたのです。
入社後、藤子不二雄さんの『ジャングル黒ベエ』や、児童文学の斉藤淳夫さん原作の『ガンバの冒険』、赤塚不二夫さんの『元祖天才バカボン』などの人気作を、プロデューサーとして手がけられます。
『ジャングル黒べえ』はアニメ発の企画で、そもそもは宮崎駿さんも企画段階にたずさわっていたそうです。これを藤子不二雄さんに描きあげてもらえたのも、三吉郎さんだったからでしょう。
三吉郎さんはそれぞれの原作者からの信頼も厚く、『天才バカボン』の二度目のアニメ化も赤塚さんから任されます。『元祖天才バカボン』というタイトルは、三吉郎さんの奥様の発想だったそうです。
そして、元祖天才バカボン』を制作中の1976年(昭和51年)、三吉郎さんは東京ムービーから独立し、楠部大吉郎さん、別紙壮一さんたちと、シンエイ動画を立ち上げられます。
元々『ドラえもん』に惚れ込んでいた三吉郎さんは、東京ムービー在籍時からアニメ化企画を温めていました。ただ『ドラえもん』は以前、別会社により日本テレビ系で1973年(昭和48年)に放映されました。
こちらは日曜夜7時からの枠で、同じ時間帯にはフジテレビでは『マジンガーZ』が放映中でした。強力な番組と重なったためか、あまり評判になりませんでした。
原作者である藤子・F・不二雄さんも、このアニメ版の人気が上がらなかったことがショックだったようで、新たなテレビアニメ化に対しては消極的でした。
そこで三吉郎さんは、Aプロ時代から旧知の仲だった高畑勲さんに企画書を書いてもらいます。それを読み納得された藤子さんにOKをもらったことから、その奮闘が始まるのです。
まず、とにかく東京のキー局に営業をかけていきました。ですが、以前失敗だった作品の再アニメ化企画を実績のない新興プロダクションが売り込みを単にかけても、門前払いが関の山です。
それでも三吉郎さんは、決して挫けることはありませんでした。テレビ局に日参し、粘り強く売り込みを続けました。その甲斐あって、ようやくテレビ朝日系で夕方のオビ番組として決めることができたのです。
今は新シリーズとなり時間帯も変わりましたが、『ドラえもん』は誰もが知るアニメです。ですがスタート時の三吉郎さんの努力なくしては、今に繋がるテレビアニメや劇場版長編もなかったでしょう。
『ドラえもん』のアニメの道を切り開いてくださった楠部三吉郎さんに、改めて感謝いたします。

楠部三吉郎著『「ドラえもん」への感謝状』(小学館)
三吉郎さんの歩みと『ドラえもん』への思いが分る一冊です。
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