あるマンガ家の航跡 天馬正人伝 その3
- 2020/08/09
- 06:30
■マンガからアニメへ
天馬正人さんは原稿を描くスピードも速いことで知られていました。そのため、当時の人気作だった桑田二郎さんの『月光仮面』や、堀江卓さんの『天馬天平』などの、手伝いにも借り出されていました。
ご自身の作品の執筆の傍ら、締め切りを多数抱え多忙だった桑田さんや堀江さんの人気作の手伝いもしていたのです。各社の編集者からも、頼りにされていました。
ただ少年マンガ雑誌はそんな月刊誌全盛の時代から、やがてテレビの出現で主役は週刊誌へと移行します。
人気を誇っていた『少年』(光文社)や『少年クラブ』(講談社)、『冒険王』(秋田書店)、『少年画報』(少年画報社)などに変わり、『少年マガジン』(講談社)や『少年サンデー』(小学館)がメインのマンガ雑誌として台頭してきたのです。
天馬さんは週刊誌時代に入っても、創刊当時『少年マガジン』からの注文で、SFヒーローものの『パトロールQ』(原作/伊藤照夫)を連載しました。
単行本や月刊誌時代から得意とされた『スーパージャイアンツ』(原作/宮川一郎)や『スーパー・ゼット』(原作/宮川一郎)と同様、スーパーヒーローが活躍するSF作品です。
この『パトロールQ』がきっかけとなって、ある転機が訪れます。
『パトロールQ』連載時の扉絵を吉田竜夫さんが担当したことで知り合い、吉田健二さん、九里一平さんたち兄弟で立ち上げるグループへの参加を強く請われたのです。
まだタツノコプロという社名も、決まっていない頃です。天馬さんは、吉田さんの「力を貸して欲しい」という要請に応えるべく、参加を決意します。
合流後は、吉田竜夫さんの『少年忍者部隊月光』や、九里一平さんの『大空のちかい』などマンガ作品の原作や構成を次々と手掛けられました。
そして、マンガ家集団だったタツノコプロの記念すべきテレビアニメーション第一作『宇宙エース』では、企画と脚本も担当されたのです。
次回からは時計の針を戻して、天馬さんがマンガ家デビューされた、昭和20年代の頃から振り返っていきましょう。(つづく)

天馬正人さんの単行本の数々
天馬正人さんは原稿を描くスピードも速いことで知られていました。そのため、当時の人気作だった桑田二郎さんの『月光仮面』や、堀江卓さんの『天馬天平』などの、手伝いにも借り出されていました。
ご自身の作品の執筆の傍ら、締め切りを多数抱え多忙だった桑田さんや堀江さんの人気作の手伝いもしていたのです。各社の編集者からも、頼りにされていました。
ただ少年マンガ雑誌はそんな月刊誌全盛の時代から、やがてテレビの出現で主役は週刊誌へと移行します。
人気を誇っていた『少年』(光文社)や『少年クラブ』(講談社)、『冒険王』(秋田書店)、『少年画報』(少年画報社)などに変わり、『少年マガジン』(講談社)や『少年サンデー』(小学館)がメインのマンガ雑誌として台頭してきたのです。
天馬さんは週刊誌時代に入っても、創刊当時『少年マガジン』からの注文で、SFヒーローものの『パトロールQ』(原作/伊藤照夫)を連載しました。
単行本や月刊誌時代から得意とされた『スーパージャイアンツ』(原作/宮川一郎)や『スーパー・ゼット』(原作/宮川一郎)と同様、スーパーヒーローが活躍するSF作品です。
この『パトロールQ』がきっかけとなって、ある転機が訪れます。
『パトロールQ』連載時の扉絵を吉田竜夫さんが担当したことで知り合い、吉田健二さん、九里一平さんたち兄弟で立ち上げるグループへの参加を強く請われたのです。
まだタツノコプロという社名も、決まっていない頃です。天馬さんは、吉田さんの「力を貸して欲しい」という要請に応えるべく、参加を決意します。
合流後は、吉田竜夫さんの『少年忍者部隊月光』や、九里一平さんの『大空のちかい』などマンガ作品の原作や構成を次々と手掛けられました。
そして、マンガ家集団だったタツノコプロの記念すべきテレビアニメーション第一作『宇宙エース』では、企画と脚本も担当されたのです。
次回からは時計の針を戻して、天馬さんがマンガ家デビューされた、昭和20年代の頃から振り返っていきましょう。(つづく)

天馬正人さんの単行本の数々
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- テーマ:懐かしいアニメ作品
- ジャンル:アニメ・コミック
- カテゴリ:天馬正人伝
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