あるマンガ家の航跡 天馬正人伝 その6
- 2020/08/30
- 06:30
■大田加英二デビュー (3)
天馬正人さんは、もともとは時代物が好きで、師匠である太田じろうさんのような温もりのある優しい児童マンガの世界を目指していました。
「大田加英二」というペンネームも太田じろうさんに苗字をいただき、本名を合わせて名乗ったくらいです。
この筆名は、太田じろうさんも一緒に考えてくれたものです。念のため、池袋に居た当時評判の高かった占い師に姓名判断をしてもらいに行くと、「一生仕事が途切れることがない良いペンネームだ」と太鼓判を押されたそうです。
大田加名義でデビューした後は『孝女白菊』(鶴書房)や『巡禮お鶴物語』(鶴書房)、『天狗党物語』(鶴書房)、『戦国太平記』(鶴書房)など、時代物作品を次々と手掛けられました。
鶴書房での初期作品、『霧隠才蔵』や『孝女白菊』は、評判になったようです。時代物の剣劇ものや少女ものなど、両方とも描けるということで注目されたのかもしれません。
着物や所作などの表現も確かなもので、構成力もあった天馬さんのもとには、他の出版社からも次第に執筆依頼が来るようになります。
デビュー後すぐの時期には、B6マンガの出版で当時の大手だった太平洋文庫からも描き下ろし単行本の話が舞い込みます。このマンガ単行本界ではメジャーだった版元からのオファーは、マンガ家として嬉しいことだったと思います。
とはいえデビューしたのは、鶴書房でした。当時は厳密な専属制度はなかったのですが、ライバル社での執筆になるということで、義理堅い天馬さんは太平洋文庫では別のペンネームを名乗ることにしました。
それが、「高橋一夫」という筆名です。これは、本名からもじった名前でした。
高橋一夫名義では、『慶安太平記』や『青葉の笛』、『夜叉王』、『黒潮の唄』など、太平洋文庫漫画全集のラインナップでやはり時代モノを次々に描き下ろしていきました。(つづく)

大田加英二『孝女白菊』(昭和28年3月初版)と、その改題版『阿蘇の白菊』(昭和29年3月)
いずれも鶴書房刊
天馬正人さんは、もともとは時代物が好きで、師匠である太田じろうさんのような温もりのある優しい児童マンガの世界を目指していました。
「大田加英二」というペンネームも太田じろうさんに苗字をいただき、本名を合わせて名乗ったくらいです。
この筆名は、太田じろうさんも一緒に考えてくれたものです。念のため、池袋に居た当時評判の高かった占い師に姓名判断をしてもらいに行くと、「一生仕事が途切れることがない良いペンネームだ」と太鼓判を押されたそうです。
大田加名義でデビューした後は『孝女白菊』(鶴書房)や『巡禮お鶴物語』(鶴書房)、『天狗党物語』(鶴書房)、『戦国太平記』(鶴書房)など、時代物作品を次々と手掛けられました。
鶴書房での初期作品、『霧隠才蔵』や『孝女白菊』は、評判になったようです。時代物の剣劇ものや少女ものなど、両方とも描けるということで注目されたのかもしれません。
着物や所作などの表現も確かなもので、構成力もあった天馬さんのもとには、他の出版社からも次第に執筆依頼が来るようになります。
デビュー後すぐの時期には、B6マンガの出版で当時の大手だった太平洋文庫からも描き下ろし単行本の話が舞い込みます。このマンガ単行本界ではメジャーだった版元からのオファーは、マンガ家として嬉しいことだったと思います。
とはいえデビューしたのは、鶴書房でした。当時は厳密な専属制度はなかったのですが、ライバル社での執筆になるということで、義理堅い天馬さんは太平洋文庫では別のペンネームを名乗ることにしました。
それが、「高橋一夫」という筆名です。これは、本名からもじった名前でした。
高橋一夫名義では、『慶安太平記』や『青葉の笛』、『夜叉王』、『黒潮の唄』など、太平洋文庫漫画全集のラインナップでやはり時代モノを次々に描き下ろしていきました。(つづく)

大田加英二『孝女白菊』(昭和28年3月初版)と、その改題版『阿蘇の白菊』(昭和29年3月)
いずれも鶴書房刊
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- テーマ:懐かしいアニメ作品
- ジャンル:アニメ・コミック
- カテゴリ:天馬正人伝
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